希死念慮について
初めまして、おみです。
忘れない内に、留めとこうと思いまして。
便乗マンです。
まず最初にわたしの生きてきた根っこにある部分の話を。
希死念慮とは。
とは。
死にたいと願うこと。
[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。
昔から、中学生あたりからこの願望は強かった。
漠然と、特に意味もなく死にたいと思った。
いやきっとなんらかの理由があったのかもしれないが、きっとそれはどうでもいいことで、そろそろ死ぬのだろうなあとその当時わたしは思っていた。
中学生の時には卒業までに何らかの事故病気で死ぬ、だとか。結局死ねなくて高校入学。
そこでも全く同じことを考えた方がやはり死ねない、死ねるわけがない。死は身近だというのは嘘だと思った。
そして高校卒業。20歳までに死ぬ、死ぬ。そう信じて今。後1ヶ月で20歳だ。
…嘘だろう。この8年間の漠然とした願いは叶わなかったのだ。否、叶うはずもなかった。自殺が能動的に行われることに対し、わたしの死にたいは受動的なのだ。
きっとそう上手くはいかない、わかっていたはず。
自殺をしようとしたこともない、あわよくば震災だとか交通事故で死ねたら嬉しい程度。
だからわたしは精神疾患もなく、健常者としてぬくぬくと育ってきた。
きっと本気で死にたいと考えたことがあるのか?と問われそうな勢いだ。
でもわたしの中で死にたい、20歳までに死にたい、早く死にたいの欲望は消えたことはないのだ。
それもこれも、未来だとか将来だとかが明確ではないから、願望がないから、なのか。
生きていく意味が見つけられそうにないから、なのか。
だけれどわたしはこの状態から抜け出したいとは思わないし、これを書いてる今だってこれからだって、そう思い続けることもそんな未来を描くことも、変わらず続けるのだろう。
そして、精神科に行ったこともカウンセラーでお世話になったこともないそんなわたしでもこれだけはわからなかった。
なんで死んではいけないのか
が、わからなかった。
死にたいなら死ねばいい、生き続ける理由はない。人はいつか死ぬ。が持論だった。
死にたい人がいればきっとわたしは止めない。後味が悪かろうと、親友だろうと。こうなるしかなかったんだよと、助けられる未来は想像できない。わたしが何かしてやれるほど大きな力を持っていないから。
だけれど、知り合いに自殺未遂した人なんていないし相談を受けたこともないわたしが、実際その状況を目の当たりにして助かるかどうかは未だにわからないのだ。
しかしこの持論はきっと変わらない、わたし自身の命の価値観なのだろう。
170822.おみ