書き綴るよ

病気について

 

わたしの病気はたぶん、たぶんですが。

非ジストロフィー性ミオトニー症候群とかいうやつです。診断書とかありません。病院とか行ってないです。勘です。

 

読まなくても全然大丈夫ですが一応その病気のリンクです↓

難病情報センター | 非ジストロフィー性ミオトニー症候群(指定難病114)

 

 まぁ知らなくてもいい病気ですが、難病指定な上に治りません。薬も効きません。

一生この病気と折り合いをつけて二人三脚ですふざけんな。

 

まぁこの病気はそんなに厄介なものでは無く、階段の1段目が登れないだとか、手を握ったら開かないだとかその程度。

遺伝性なものですが、親にも兄弟にもいないので突然変異として遺伝子変異をもつ患者とされているようで、まぁなにを間違えたのか前世で何かやらかしたのか、それが見事に当たったらしいアハハ

 

クソかよ…

 

 

この病気に疑問を持ったのは去年だったけど、症状は小学生の頃から出ていた。

発達障害の子と徒競走をして負けるのもザラ。別に馬鹿にしているわけではないが、わたしはみんなと変わらない健常者だと思っていたからビックリした記憶がある。

なんせ、よーいどんの掛け声で足が一歩前に出ない。出ても足が上がらない。スタート地点から数メートルは歩いてるようにしかみえない。走り方もおかしい。

すごく恥ずかしくて恥ずかしくて、運動会の徒競走も、スポーツテストも嫌で嫌で仕方がなかった。

それは父にも母にも友達にも言えず、足がおかしいのは何かの病気かとぼんやりとわかっていたが、結果が、それに名前がつくのが怖くてどうしても言えなかった。

 

中学生になったわたしは運動が苦手だった。

そりゃあそうだろう、自分の意思関係なく前に出ない足、急に強張る体。

長距離だけはスタートダッシュは関係ないので一番得意だったのが唯一の救いだった。

だけれど中学に入学し、部活動を決めるに当たってやはり親に言われた言葉は、運動部に入りなさい、だった。

言いたいことはわかる。両親はどちらとも運動部だったし、親にこの症状については伝えていない。わたしは渋々了承した。

入部したのはソフトテニス部。正直一番楽そうだったからだ。陸上部は以ての外。バスケやバレーは小学生から習っている子を見ると行く気はしなかった。卓球部は入部人数が多くてやめた。残ったのはテニス部。消去法と言っても過言ではない。

まぁ予想通り楽だったのだが、なにがアレって坂道ダッシュだ。無駄に部活始まる前の軽い運動にこれが組み込まれていた。手頃な坂に目星をつけた先生は生徒を二列で並べさせ、手を叩いたと同時にダッシュ。その間隔はわりと早かった思い出がある。

ご想像通り、わたしは坂道を前にして足が踏み出せないでいた。踏み出しても次の足が前に出ない。しかし後ろからはまた人が来る。

恐怖だった。10メートルしかない短い坂が長い長い険しい山だと感じた。

勿論後ろから近づいて来る先輩に追いつかれる。先輩にはなんでそんなに遅いの?とイラつかれる。わたしが悪いのか、わたしじゃないわたしの身体が悪いんだ。

 

この時間が一番嫌いだった。

 

 

そして高校生になり、性懲りも無くテニス部に入部。これまた運動部に入れという親の言う通りにした結果なのだけれど。

しかし高校のテニス部は楽だった。中学と同じくらい楽だったのだ。先輩が引退したと同時に、わたしたち一年生しか残らない部。それも6人しかいない。適当に過ごしていたが、そんなある日突然コーチと名乗るジジイが現れたのだ。

 

それはまぁいい、いいが。

 

テニスの楽しさとか奥深さとかがわかったいい機会だったのだが、それと同時にやはりわたしの足はポンコツ以下ということがわかった。

昔より多くなってメニューも豊富になった練習量と質。わたしの足が使い物にならないのはわかっていたが、もうどうにもならない。

怪我をすることが増えた。

ボールを前に落とされても走って取りに行けない足。

後ろにきたボールを打とうと、後退しながら走るも足がもつれてこける。

見事に自分の意思に反してくれる。この頃から足というより筋肉がおかしいというこについてはわかっていたのだ。

頭では走れ、前に出せと唱えててもそれがうまく伝わらない。

同級生には馬鹿にされる始末。だけれどこの症状を上手に伝えられるわけでもなく、未だ病院にかかってもいないわたしが何を言っても言い訳にしかならないのだ。

だからそういうキャラでいるしかなかった。何もできない、運動音痴なくせに運動部に入っている、使えない。

足に関しては人並み以下なのを理解して、生きていこうと思った。

 

まぁそれも引退したら関係はなかった。

高校卒業。もう体育の授業も部活動もない。

 

それでも日常的に駅のホームや家、学校の階段が上がらないだとか、バスに乗る時も足が上がらずに迷惑をかけそうになるだとか。

友達には必死に隠していた。別に隠す必要もないが、その時はこの症状の名前も知らずに自分自身でも気持ちが悪いと思っていたからだ。

言ったところでどうにもならいことはわかっていた。

でもやはり階段を上る時に後ろに友達がいると、上がらなかったらどうしようと動悸が早くなるし、階段を目の前にすると今から吊橋でも渡るのかという勇気を持って踏み出さなければいけなくなる。

それは本当に辛かった。

実際、それを見た友達はなんか上り方ヘンじゃない?だとか、もっと早く上って!だとか言って来るのだ。何も悪気がないとわかっていても泣きそうになる。わたしだってまともに歩きたいし走りたい。ごめん、としか言えない。

このくらいどうってことないでしょ、と思われるかもしれないが、たぶんこれはなった本人じゃないとわからないことで、わかってくれなくて全然構わない。

 

そして去年の夏。たぶん今頃。わたしはこの症状に名前をつけたいと思うようになった。

何を感じたかなんてもう忘れたが、目の前にはスマートフォンという文明の利器がある。

調べるのは造作もないことだった。

まずは自分の症状を検索する。階段 足が上がらない、だとか、握った手が開かない、だとか。

確かそう検索した結果は、精神的な要因と書かれていて違うなと感じた。小学生の頃から全く変わらない症状はきっと精神的なものではないことはわかっていた。

なのでそこに、筋肉 病気、という単語も入れてみた。そしたら見事にヒット。

この症状で悩まされている人のブログやら上記のURLが一番わたしの病気に近いと感じた。

嬉しかった。正直泣いた。あの頃はこれに名前がつくことが怖かったが、同じ病気で苦しんでる人は他にもいるということに一種の感動さえ覚えた。不謹慎だけど。

それからわたしは暫くこれについてずっと調べていた。すると明らかになっていく事実。

遺伝性、難病、やはり筋肉の病気…そして、

 

あぁ、やっぱり治らないんだなあ

 

と。

病院にはいく気にもならなかった。高い遺伝子検査まで払って自分の病気を肯定する気にもならかった。

というかそもそも治らないのに病院に行く意味がなかった。

きっとこの病気だと感じた。それでよかった。

治る見込みがあるならば、と思ったけれどそれもないならと。この病気で死ぬわけでもないし。

 

まぁそう思っていたのは甘かったのだけれど

 

ワハハ

 

つづく。

 

 

 

 

170822.おみ