書き綴るよ

病気について 2

 

はい。

甘かったです。

ミオトニーの記事を学校の授業中にパラパラ見ていたのですが、

 

全身麻酔キメたら高熱が出て最悪死ぬ

 

らしいです。死にます。笑えませんねワハハ

まぁそれはそれで死ねたらラッキーの部類です。でも授業中影でちょっと泣いた

そうかそうか、この病気も死ぬのかあと。逆に救われたような、この病気を建前に死ぬという言葉が使えるのかあと。

まぁその確率もよくわかりません。

が、きっと、わたしの根っことなる希死念慮と結びつくものがあるのかなあとぼんやりと考えていました。

 

そして追い討ちをかけるように出産について。

今ではこんな捻くれた性格をしていますが、昔は子供いいなあと思っていた時期がありました。男に生まれたら名前はどうするだとか、スポーツは何をやらせたいだとか。

しかしたくさんの記事を見ている内に、そういえば遺伝性だということに気づくわたし。

遺伝するのではないか。自分の子供に。自分のこの病気のせいで。

先天性なものなので、きっとわたしはすぐ気づく。軽いか重いかもわからないが、50パーセントの確立だ。子供が二人いたら一人はこの遺伝子を持って生まれて来る未来。

わたしはきっと耐えきれないと思った。

そして子供に私と同じ未来を辿らせたくないと思った。

女の子ならまだしも男の子だったら。いじめられないだろうか、運動もまともにできないなんて、可哀想で見ていられない。

他人事じゃないからきっと心配してしまう。

ここでわたしが出産を諦めたキッカケが生まれる。他にも理由はあるが割愛。

 

まぁそんなこんなで自分の病気について一通り分かったところで母親にカミングアウトをした。

確か24時間テレビの真っ最中。言うなら今かなあなんて、らしくないことを考えていた。

どうやって言おうとぼんやりと思考を巡らせ、話したいことがあると切り出した。

実は小学生の頃から上手く足が踏み出せないということから言い始めた。

すでに涙は目に浮かんでいた。

握った手がうまく開かない。今も現状維持のまま。階段が怖い。病名も調べた。

溢れる涙。何で泣いてるのか自分でもわからなかった。

ずっと言わなかった。言えなかった。

母親に病気について詳しく書いてあるサイトを見せる。難しい顔をしている。

拳を強く握った。涙は止まらない。

顔を上げる母。無言でティッシュを渡してくれた。

何で今まで言ってこなかったの?

確か第一声がこれだった。

(いやせめて今まで気づかなくてごめんねって言ってくれよと思ったが。)

言えるわけがないでしょう、こんな意味不明な病気。難病指定されたのも一昨年で、周りに理解者もいなくて、存在自体があやふやな病気が。

わたしが知ったのもついこの間で、言ったところで相手にされないと思っていた。今まで一緒に過ごしてきてわからなかったでしょうあなた達も。だから言わなかった言えなかった。

 

けれどわたしは泣き始めたら上手く喋れないのが昔からで、泣いてちゃ何もわからないでしょと怒られるのもしばしばで。

泣いて喋れないのに、泣くのは止められないのに、喋れないからあんたにわかるはずないでしょバカ

 

と言った感じで上手く喋れなかったし伝えられなかったのがオチ。

 

それでも一応親らしく、病院行く?とは言ってくれたが、治らないし薬も保険きかないし金かかるだけだし現状そんな困ってないから大丈夫と言った。

 

そこで、やはり親戚も祖父祖母にも同じ症状の人はいないと言われたのでやはり突然変異だということで落ち着いた。それを明らかにしたかったのも今回カムした理由の一つだ。

最悪全身麻酔で死ぬことは伝えなかった。それはそれでもうどうでもよかった。

 

そして現在。去年の夏、きっとわたしが泣きながらカムしたあの出来事を母は忘れているだろう。多分そんな気がする。

そもそもわたしに興味がないので覚えている方が奇跡だ。

なんであんなに泣きながら話したのか不思議でならない。今まで苦しんできたんだよと、少しでも理解してくれたのが嬉しかったのだろうか。

わたしはわたしのこの行動に意味があるのか未だにわからないが、後悔はしていない。

 

話は戻るが、親にカムした夏休みも開け、九月。

いつも一緒にいる友達とオーキャンの帰りにイタリアンを一緒に食べている最中、何を思ったのか突然カムした。

その子はわたしのツイッターの裏垢も知っていて、自分の病気についてツイートしたこともあったから別にいいかなと、興味本位で言ってみた。

そしたらまぁ、親より心配してくれる。神か

親身に聞いてくれた。ただ嬉しかった。

やっぱり病院行こうかなあとまで思わせてくれた友達に圧倒的感謝という感じだ。

この病気のせいか、それ以前の話か、自分の身体に異変が起きてもギリギリになるまで何かしない癖がついているせいで結局は何もしないのだが。

 

今ではこの病気についてわたしの口から話したことがある人は、母、妹、いつも一緒にいる友達、そして最近何かと相談に乗ってくれる男友達の4人。

この男友達も、まぁ過去やらなんやらに色々あって、なんかそろそろ癌で死にそうだな?みたいなひょろい男の子なのだけれど。

因みに好きな子ぴは女の子♡も唯一カム済みである。

こいつに至っては、2ヶ月前くらいから病気についてカムしていて、

未だに気を使ってくれている。神か

階段はできるだけ避けてくれるし、大丈夫?の声かけも忘れない。できた男だ。

 

専門に入って友達関係にはそこそこ恵まれたなあと嬉しく思う。

 

そんな感じでわたしの病気の過去と現状についてはこのくらいだ。きっと去年の夏の方がもっと深く考えていただろうし、削除してしまったが昔のツイート内容を見返したら悲惨なことになっているだろう。

それでも日常的に命にかかわるような疾患も、歩行不可能なほどの病状を患っているわけでもなく、元気に生きている。

見た目は健常者と何ら変わりはない。

それでも気を使ってくれる人がいるだけで、カムした意味はあるのかなと感じる。

 

数年間、理解されずに自分でも何が原因かわからないこの病気に名前がついたことによって不安は消えた。診断書があればさらに納得はいくが、きっとわたしは行かないのだろう。

もし大切な人ができて、その人に後押しされれば行きますという単純人間ではあるが、まぁそれは今後に期待という感じだ。

 

これからもこの病気と上手く付き合って生きていこうと思う。

 

 

170823.おみ

 

 

 

 

 

 

 

 

病気について

 

わたしの病気はたぶん、たぶんですが。

非ジストロフィー性ミオトニー症候群とかいうやつです。診断書とかありません。病院とか行ってないです。勘です。

 

読まなくても全然大丈夫ですが一応その病気のリンクです↓

難病情報センター | 非ジストロフィー性ミオトニー症候群(指定難病114)

 

 まぁ知らなくてもいい病気ですが、難病指定な上に治りません。薬も効きません。

一生この病気と折り合いをつけて二人三脚ですふざけんな。

 

まぁこの病気はそんなに厄介なものでは無く、階段の1段目が登れないだとか、手を握ったら開かないだとかその程度。

遺伝性なものですが、親にも兄弟にもいないので突然変異として遺伝子変異をもつ患者とされているようで、まぁなにを間違えたのか前世で何かやらかしたのか、それが見事に当たったらしいアハハ

 

クソかよ…

 

 

この病気に疑問を持ったのは去年だったけど、症状は小学生の頃から出ていた。

発達障害の子と徒競走をして負けるのもザラ。別に馬鹿にしているわけではないが、わたしはみんなと変わらない健常者だと思っていたからビックリした記憶がある。

なんせ、よーいどんの掛け声で足が一歩前に出ない。出ても足が上がらない。スタート地点から数メートルは歩いてるようにしかみえない。走り方もおかしい。

すごく恥ずかしくて恥ずかしくて、運動会の徒競走も、スポーツテストも嫌で嫌で仕方がなかった。

それは父にも母にも友達にも言えず、足がおかしいのは何かの病気かとぼんやりとわかっていたが、結果が、それに名前がつくのが怖くてどうしても言えなかった。

 

中学生になったわたしは運動が苦手だった。

そりゃあそうだろう、自分の意思関係なく前に出ない足、急に強張る体。

長距離だけはスタートダッシュは関係ないので一番得意だったのが唯一の救いだった。

だけれど中学に入学し、部活動を決めるに当たってやはり親に言われた言葉は、運動部に入りなさい、だった。

言いたいことはわかる。両親はどちらとも運動部だったし、親にこの症状については伝えていない。わたしは渋々了承した。

入部したのはソフトテニス部。正直一番楽そうだったからだ。陸上部は以ての外。バスケやバレーは小学生から習っている子を見ると行く気はしなかった。卓球部は入部人数が多くてやめた。残ったのはテニス部。消去法と言っても過言ではない。

まぁ予想通り楽だったのだが、なにがアレって坂道ダッシュだ。無駄に部活始まる前の軽い運動にこれが組み込まれていた。手頃な坂に目星をつけた先生は生徒を二列で並べさせ、手を叩いたと同時にダッシュ。その間隔はわりと早かった思い出がある。

ご想像通り、わたしは坂道を前にして足が踏み出せないでいた。踏み出しても次の足が前に出ない。しかし後ろからはまた人が来る。

恐怖だった。10メートルしかない短い坂が長い長い険しい山だと感じた。

勿論後ろから近づいて来る先輩に追いつかれる。先輩にはなんでそんなに遅いの?とイラつかれる。わたしが悪いのか、わたしじゃないわたしの身体が悪いんだ。

 

この時間が一番嫌いだった。

 

 

そして高校生になり、性懲りも無くテニス部に入部。これまた運動部に入れという親の言う通りにした結果なのだけれど。

しかし高校のテニス部は楽だった。中学と同じくらい楽だったのだ。先輩が引退したと同時に、わたしたち一年生しか残らない部。それも6人しかいない。適当に過ごしていたが、そんなある日突然コーチと名乗るジジイが現れたのだ。

 

それはまぁいい、いいが。

 

テニスの楽しさとか奥深さとかがわかったいい機会だったのだが、それと同時にやはりわたしの足はポンコツ以下ということがわかった。

昔より多くなってメニューも豊富になった練習量と質。わたしの足が使い物にならないのはわかっていたが、もうどうにもならない。

怪我をすることが増えた。

ボールを前に落とされても走って取りに行けない足。

後ろにきたボールを打とうと、後退しながら走るも足がもつれてこける。

見事に自分の意思に反してくれる。この頃から足というより筋肉がおかしいというこについてはわかっていたのだ。

頭では走れ、前に出せと唱えててもそれがうまく伝わらない。

同級生には馬鹿にされる始末。だけれどこの症状を上手に伝えられるわけでもなく、未だ病院にかかってもいないわたしが何を言っても言い訳にしかならないのだ。

だからそういうキャラでいるしかなかった。何もできない、運動音痴なくせに運動部に入っている、使えない。

足に関しては人並み以下なのを理解して、生きていこうと思った。

 

まぁそれも引退したら関係はなかった。

高校卒業。もう体育の授業も部活動もない。

 

それでも日常的に駅のホームや家、学校の階段が上がらないだとか、バスに乗る時も足が上がらずに迷惑をかけそうになるだとか。

友達には必死に隠していた。別に隠す必要もないが、その時はこの症状の名前も知らずに自分自身でも気持ちが悪いと思っていたからだ。

言ったところでどうにもならいことはわかっていた。

でもやはり階段を上る時に後ろに友達がいると、上がらなかったらどうしようと動悸が早くなるし、階段を目の前にすると今から吊橋でも渡るのかという勇気を持って踏み出さなければいけなくなる。

それは本当に辛かった。

実際、それを見た友達はなんか上り方ヘンじゃない?だとか、もっと早く上って!だとか言って来るのだ。何も悪気がないとわかっていても泣きそうになる。わたしだってまともに歩きたいし走りたい。ごめん、としか言えない。

このくらいどうってことないでしょ、と思われるかもしれないが、たぶんこれはなった本人じゃないとわからないことで、わかってくれなくて全然構わない。

 

そして去年の夏。たぶん今頃。わたしはこの症状に名前をつけたいと思うようになった。

何を感じたかなんてもう忘れたが、目の前にはスマートフォンという文明の利器がある。

調べるのは造作もないことだった。

まずは自分の症状を検索する。階段 足が上がらない、だとか、握った手が開かない、だとか。

確かそう検索した結果は、精神的な要因と書かれていて違うなと感じた。小学生の頃から全く変わらない症状はきっと精神的なものではないことはわかっていた。

なのでそこに、筋肉 病気、という単語も入れてみた。そしたら見事にヒット。

この症状で悩まされている人のブログやら上記のURLが一番わたしの病気に近いと感じた。

嬉しかった。正直泣いた。あの頃はこれに名前がつくことが怖かったが、同じ病気で苦しんでる人は他にもいるということに一種の感動さえ覚えた。不謹慎だけど。

それからわたしは暫くこれについてずっと調べていた。すると明らかになっていく事実。

遺伝性、難病、やはり筋肉の病気…そして、

 

あぁ、やっぱり治らないんだなあ

 

と。

病院にはいく気にもならなかった。高い遺伝子検査まで払って自分の病気を肯定する気にもならかった。

というかそもそも治らないのに病院に行く意味がなかった。

きっとこの病気だと感じた。それでよかった。

治る見込みがあるならば、と思ったけれどそれもないならと。この病気で死ぬわけでもないし。

 

まぁそう思っていたのは甘かったのだけれど

 

ワハハ

 

つづく。

 

 

 

 

170822.おみ

 

 

希死念慮について

 

初めまして、おみです。

忘れない内に、留めとこうと思いまして。

便乗マンです。

 

まず最初にわたしの生きてきた根っこにある部分の話を。

 

 

希死念慮とは。

とは。

 

死にたいと願うこと。
[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。 

 

昔から、中学生あたりからこの願望は強かった。

 

漠然と、特に意味もなく死にたいと思った。

いやきっとなんらかの理由があったのかもしれないが、きっとそれはどうでもいいことで、そろそろ死ぬのだろうなあとその当時わたしは思っていた。

 

 

中学生の時には卒業までに何らかの事故病気で死ぬ、だとか。結局死ねなくて高校入学。

そこでも全く同じことを考えた方がやはり死ねない、死ねるわけがない。死は身近だというのは嘘だと思った。

そして高校卒業。20歳までに死ぬ、死ぬ。そう信じて今。後1ヶ月で20歳だ。

 

…嘘だろう。この8年間の漠然とした願いは叶わなかったのだ。否、叶うはずもなかった。自殺が能動的に行われることに対し、わたしの死にたいは受動的なのだ。

きっとそう上手くはいかない、わかっていたはず。

自殺をしようとしたこともない、あわよくば震災だとか交通事故で死ねたら嬉しい程度。

 

だからわたしは精神疾患もなく、健常者としてぬくぬくと育ってきた。

きっと本気で死にたいと考えたことがあるのか?と問われそうな勢いだ。

でもわたしの中で死にたい、20歳までに死にたい、早く死にたいの欲望は消えたことはないのだ。

 

それもこれも、未来だとか将来だとかが明確ではないから、願望がないから、なのか。 

生きていく意味が見つけられそうにないから、なのか。

 

だけれどわたしはこの状態から抜け出したいとは思わないし、これを書いてる今だってこれからだって、そう思い続けることもそんな未来を描くことも、変わらず続けるのだろう。

 

 

そして、精神科に行ったこともカウンセラーでお世話になったこともないそんなわたしでもこれだけはわからなかった。

 

なんで死んではいけないのか

が、わからなかった。

 

死にたいなら死ねばいい、生き続ける理由はない。人はいつか死ぬ。が持論だった。

 

死にたい人がいればきっとわたしは止めない。後味が悪かろうと、親友だろうと。こうなるしかなかったんだよと、助けられる未来は想像できない。わたしが何かしてやれるほど大きな力を持っていないから。

だけれど、知り合いに自殺未遂した人なんていないし相談を受けたこともないわたしが、実際その状況を目の当たりにして助かるかどうかは未だにわからないのだ。

 

しかしこの持論はきっと変わらない、わたし自身の命の価値観なのだろう。

 

 

 

170822.おみ